■自分の信じる環境づくりをめざし
大阪・堺に生まれ育った青木さん。バブル期に転職した大手建設会社で、賃貸マンション建設の営業マンとしての日々を送っていた。
が、バブル経済は崩壊して、いままでのバラ色の投資回収計画は成り立たなくなったにもかかわらず、提案書を粉飾してまで注文をとらねばならなくなった。仕事への疑問が沸いてきていた。
環境への関心が高まっていた青木さんは、会議で太陽光や雨水の利用を提案してみたが、上層部の反応は皆無。そのとき、「会社に自分の居場所はない。他のことを考えようと思った」という。
■最初から有機農業で
浮上したのが退職後の夢として描いていた農業だった。環境問題に直接関われること、自分でつくって自分で値段を決められることが魅力的に見えた。
当初から有機農業をしたい、という意志が硬かった青木さん。農業会議に相談に訪れて、対応できないと言われたこともあったが、「懲りず」通った結果、京丹後市大宮町の減農薬レタス農家を研修先として紹介してもらった。
正直、雪も多く都会からも離れていた丹後への移住にはためらいもあった。他の研修先もないのか、と聞いて返ってきたのは「近郊農家だと助成はでない。人をほしがっているのは過疎の北部」という答え。選択肢はなかった。
■出てくる物件は古家ばかり
夫婦と当時5歳の娘の3人で暮らす家探しには苦労した。役場が受け入れ窓口となり探してくれたが、家賃の上限を2万円と決めた時点で、出てくる物件は山奥の村の茅葺き民家の古家ばかり。中でも、学校から近いところというのは譲れなかった。なかなか条件に合うものがみつからないなか、「どうせ空けていてもしょうがないから貸しましょう」といって貸してもらえることになったのが、元町長の隠居だった。学校も近く、合併浄化槽の水洗トイレで、家の中は都会と変わらないような生活だ。
■イチからの再スタート
農業もすんなりと行かなかった。あくまで有機栽培を追及したい青木さんに対して、研修先のレタス農家は「有機農業では食っていけない」という。考え方の違いから衝突した。
当初は研修先農家と共同経営する予定だったが、「どうしても有機農業」という青木さんの決意を理解してもらい、独立した。農地も作業場も機械もイチからそろえる再スタートとなった。
農地は自治会長に相談して、余っていた国営農地を貸してもらえるようになった。本来なら共同出荷をしなければならなかったが、「有機で自分でやりたい」というのも認めてもらった。2001年「自然耕房あおき」の立ち上げだ。
有機農業には確立されたやり方はない。文献を読みあさり、京都大学の西村和雄先生に指導を受けたりしながら学び、最初、無機物のかたまりだった畑の土を、生きた土に変えていった。各地から有機農業の研修に青木さんの畑を訪れる人も多い。
■ちゃんとした大人になれる環境づくりを
青木さんのこだわりは「こどもがちゃんとした大人になれるための生活環境をつくる」こと。だから、良い地域をつくるための活動に参加する。
実際は、夢を持って田舎に来た人に対して、厳しいところもある。田舎の慣習や文化があり、都会の文化は押し付けられない。本音と建前も分けておかないといけない。
ただ、自身は過疎地に来てよかったと思う。「人との密な付き合いができるし、おいしい作物ができるのは、ここの気候と風土のおかげだから」だ。今後の目標は村の農業後継者と、有機農業の後継者を育てること。原動力は自分の野菜を「おいし〜」といってほお張る娘と息子だ。
(2007年5月掲載)
(豊田玲子 記)
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